「摂理に戻る気ではいた」

えりこさん(40代・女性)

-摂理との出会いを教えてください。

最初、摂理に来たのは20年ほど前で、私が大学3年生の時でした。その時から信仰を持ちました。日本は宗教のイメージが悪いので、親に心配をかけないようにと、最初の頃、教会に行っていると言わずに通っていたところ、親にばれてしまったので、「嘘をついてまで行くような教会に行くな」と反対されながらも教会に通っていました。

 

聖書の勉強が楽しく、また芸術祭などで司会をやらせていただいたり、聖歌隊の練習には励んだりなど、とても充実したキャンパス生活を過ごしていました。

 

-とても充実していたのに、なぜ摂理から離れるようになったのですか?

 

大学卒業後は、かなり忙しい外資系のIT企業に就職し、その後、ベンチャー企業に転職して、仕事のために海外転勤をすることになりました。その時は、海外に摂理の教会があるかどうかも情報もなかったので、通うことができませんでした。

 

生活拠点が海外に移った後も、初めの頃は出張で日本に行った時やメールや人づてで、なんとか日曜日の御言葉だけは聞くことができていました。しかし、そのうち日本に帰国する機会もなくなり、そのままだんだんと仕事も忙しくなってしまって、海外での生活に精一杯になり、だんだんと御言葉と摂理から離れていきました。

 

自分としては、摂理と先生のことは否定をしたわけではなかったので、摂理の教会に行かなくなってからは、自分なりの生活と信仰になり、他の教会に行くようになりました。他の教会に行っていたのは、海外にも摂理の教会があることを知らなかったのと、他の教会は色々あって見つけやすかったからです。

 

日本人の教会にも行き、韓国の教会にも行き、現地のカトリックやプロテスタント、創価学会など様々な宗教を転々としていました。自分としては、いつかは摂理に戻る気ではいたのですが、そのきっかけもないまま時が過ぎ、その後、結婚して子供も生まれ、そして日本に帰国しました。

 

-「摂理に戻る気ではいた」ということですが、戻るきっかけは?

摂理の教会に行っていない期間も、メンバーとは連絡を取っていたんです。それで、日本に帰国してから、その人の紹介で水曜や日曜の御言葉を聞いたり、たまに他の教会にも行ったりするという生活を2~3年くらいしていました。そんな中途半端なことをしていたのも、自分は漠然と「摂理にはいつでも戻れる」と思っていたからでした。

でも、ある時メンバーの方に「御言葉をしばらく聞いてないし、急に日曜日の礼拝に出ることはできないよ」と言われ、いつでも戻れると思っていただけに、自分は礼拝に出る資格がないということにかなりショックを受けました。(戻ってきて急に礼拝に出る方もいます。摂理に来ていない人が礼拝に突然出てはいけないという決まりはありません。私には御言葉を学んでから出たほうがいいと当時のメンバーが判断したのだとおもいます。)

 

-そのショッキングな言葉を、どのようにご自身の中で受け止めたのですか?

自分の人生のこれまでとこの先のことを深く考えました。過去、自分が全く御言葉を聞いていなかった期間を振り返ってみると、たしかに仕事では充実し、生活も充実し、毎日が忙しく、楽しくはありました。

 

そのようではあったものの、その生き方が一生続くと考えた時、死ぬ前に自分の人生を振り返って、本当に満足な人生だったと言いきれるのかを考えてみたら、「いいや。今だけが楽しく、充実しているだけだ」という疑問が自分の中に生じました。そして、「やはり私は御言葉を聞きたい」と思うようになりました。

 

その時に気付いたのは、自分の考えでは、私は自分が摂理のメンバーだと思っていたけれど、でもそれは違っていたということ。私はかなり自分なりの解釈で御言葉を聞き、本来の摂理での信仰生活とはかけ離れた生活を送ってきたんだということが分かりました。

 

その後、牧会者の勧めもあり、基本の御言葉を全部聞き直して、再び礼拝に出られるようになり、摂理に帰ってくることができました。

 

-今、これまでを振り返って思うことを教えてください。

世の中でも、その瞬間、瞬間だけを考えれば、充実し、満足な人生を送ることはできると思います。家庭を持ち、仕事も持ち、それなりに幸せな人生を送ることもできるでしょう。

 

実際、私も以前、かなりの給料をもらい、海外勤務という働く女性としては恵まれた環境の中でキャリアを積み、良い夫と出会い、子供にも恵まれて、良いところに住み、良い生活もしていたし、そのまま御言葉を聞かなくても、それなりに楽しく充実した人生を送っていたのではないかと思います。

 

でも、摂理とは無関係なまま、あのまま一生を生きて、死ぬ間際に「自分は後悔なく人生を生きた、悔いはない」と言い切る自信は、その当時の私にはありませんでした。

 

摂理で信仰を持っても、持ってなくても、生活や家庭、生きる上ではつらいことや楽しいことは同じくあります。でも、それらの問題を乗り越える答えを、いつも御言葉を通してもらえるということが、どれだけすごいことなのかを、今は実感しています。

 

また、自分が生きていることが御心であり、神様の予定だと信じて悔いなく生きられるので、死ぬ間際に人生を振り返って絶対に後悔しない生き方をできるのは、摂理しかないと思います。

 

-最後に一言、おねがいします。

心の問題、精神の問題、人生の問題を解決できるのは、就職や結婚など肉的な方法ではなく宗教でしかないと思います。実際に、私は2年くらい他の教会に通いましたが、自分自身も生活も全く変わりませんでした。仏教、創価学会、カトリック、既成などあらゆる宗教に行ってみたからこそ確信するのは、やはり摂理の御言葉のように神様が大きく働いているところは他にはなく、人生の問題を解決できるところはないということです。

 

今、私は社会人として働きながら、主人と子供と3人で暮らしています。放蕩息子のような私をあきらめず、愛で導き続け、待ってくださり、戻るように働きかけてくださり、あらゆる環境や人を通して御言葉を聞けるようにしてくださったこと、摂理から離れるということも許してくださり、愛で再び導いてくださったことに、本当に感謝しています。

 

あの時に戻れなかったら、どうなっていたか……。一生戻れなかったのではないかと思います。残りの人生、御心から外れることなく、ただ聖三位と主のために生きたいと思っています。